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【考察系】釣りと仏教に思いを馳せる【コラム】

 

どうも!コンチャっす!WildScene広報担当のあっきーです!

 

今回は以前よりやってみたかった『コラム』企画です!

毎回気になった『テーマ』を決めて考察や自己解釈、妄想を文章にする企画です!

 

記念すべき第一回は『釣りと仏教』

 

そう思ったきっかけは『なんとなく釣りと仏教って通ずるとこある気がする』と思ったから。

けど、調べてみると当然ちゃあ当然『仏教 釣り 禁止』という文字が並ぶ。

 

あれ〜?と思いつつ調べて行ったら、仏教において必ずしも【釣り=禁止】というわけではない事がわかってきたんですねぇ。

 

そこに自分なりに『もしかしたらこうだったんじゃないの??』

という新解釈なんかを加えて紐解いてみた一本です!

 

興味がある方はお付き合いいただけたらと思います。

 

では!どうぞ!

 

 

 

 

仏教と釣りを紐解く。

  • まず結論から言ってしまうと仏教は決して釣りを禁止してはいません。

 

正確にいえば『釣りという行為』を禁止してはいない。です。

 

では何故『仏教=釣り禁止』というイメージがついたのかというと、恐らく『不殺生戒』という戒律の解釈が間違った形で拡散されているのでは?と思いました。

 

『不殺生戒』とは仏教にを代表する五戒という戒律の中の一つで、『生物の生命を絶つことを禁止する戒』というもので、これを破るものは教団追放の刑になるなど大変厳しい戒となっています。

 

つまり無為に生き物を殺める』が✖️な訳であって、『釣り』という行為そのものは決して禁止してはいないのです。

 

このことから、生業としてしている釣り(漁師)や食す為の釣りは『不殺生戒』には当たらないという考え方になります。

 

現に漁師(猟師)さんは仏教徒の仲間に入ってはいけないとはいう戒律はどこにもないですし、大漁祈願の御祈祷を承っているお寺さんもたくさんあります。

 

ここからは一部の価値観になり、諸説ありますが、ある宗派のの考え方でこういった解釈があります。

 

『殺生をする者も、それを商売する者も、それを食べる者もみな同じ 悪人である。』

 

生き物(人)を殺す人が罪人であれば、それと関わって商売をする人も また結果を受けて生きている人もみな同じ悪人です 。

また自分が良かれと思ってやったことで人が亡くなってしまったり、医療事故や交通事故との縁があれば誰しも人を殺めてしまう可能性がある。

 

つまりは人は皆、縁をいただき罪を犯して生きているので、好き好んで罪(殺生)を犯さぬようにしましょう。

 

という解釈があるのです。

 

 

 

仏教における殺生感と徒宗教の違い

 

とりあえずそんなこんなで『釣りと仏教』について調べていたら、アメリカではボウフィッシングなるものがあるそうなのです。

 
ボウとは弓のことで、矢に紐をつけて洋弓で魚を射貫き、紐を引っ張り上げて魚を捕る。
これを漁としてではなく、遊びとしてやっているらしいことだ。
ルアーや普通の釣り針による釣りと違って、矢で射貫かれた魚はすべて死んでしまう。
その中の一部は食べるとしても『絶対そんないらんやん。』って量の魚を撮っている写真もあった。
 
ではこれは悪なのか?
仏教でいったら悪だし、日本で生まれ育った僕からしてもまぁなんか悪っぽく見えてしまう。
ただ実はこれ『キリストの教え』ではセーフらしいのだ。
 
それというのも、キリスト教では、神は天地を創造して、その第六日目に鳥や獣、魚を造り、そして神の姿に似せて人間を造り、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」と言ったとある。
 
簡単に言えば『人は自然における全てを支配する権限を神にもらってるからオッケーやで。』
って意味らしい。
 
勿論、これは一部の解釈であって『キリスト教』の真意かどうかはわからない。
現に環境問題に対して積極的な先進国にはキリシタンが多いイメージがあるので。
少なくとも、『俺は支配者だ!』という意識でやっている人は少なく感じる
 
この様に宗教が違えば戒律も違うから仕方ないが、同じ宗教なら教えも同じか?というとそうでもないのだ。
 
例えば同じ仏教であるインドでは因果応報による輪廻説が古代から広く普及し、現世の生き物は過去世の自分たちの肉親の生まれかわりという可能性があるから、生き物を殺すことは、過去世の肉親を殺すことだということになるらしい。
 
日本の生き物の生命を慈しみ、その生のはかなさゆえにその生き物を憐れむという「慈悲」の心を尊重する考え方とはまた違って見える。
 
まあ考えてみれば当たり前なのだが、殺生感は人の感情とも関係がある非常にセンシティブな問題であり、『教え』だけの理由で『白』だ『黒』に簡単に分けれないものなのだから、国と言わず個人かんで相違が出るのもまた当たり前と言えるでしょう。
 
 
では、『スポーツフィッシング』はどうだろう?
 
 

 

 

『仏教から見る釣りの本質』と『釣りから見る仏教の本質』新解釈

 

この項に関してはかなり『個人的な解釈』(妄想)が入っているので、それを理解性て読んでいただきたいです。

 

スポーツフィッシングは食べる為のものではなく『娯楽』としてあるもの、勿論殺めるつもりは毛頭ないが、魚に対しては無闇に傷つける行為に当たるかもしれない。

『キャッチアンドリリース』についても、各自により違いはあるが、あくまで『また誰かが楽しめるように』という人中心な考えも聞いたことがある。

 

自分が楽しむために魚を傷つける行為はどうなのか?

きっとこれに対しては意見が分かれると思う。

 

しかし、自分の見解ではこれは『ありだと思う。

 

例えば『動物による狩り』は全てが食の為ではない。

それは本能的な訴求であり、『狩りの成功』を喜ぶことだと思う。

それは自然に備わっているものであり、それを咎める人はいないでしょう。

 

要は人にとって『楽しむ』という行為も決して無為なものではなく、食とイコールではないにしろ、確実に『生きるために必要な要素』ではないかと。

 

これを踏まえた上で今回見ている皆様に1つだけ知って欲しい事があります。

最初に言った『不殺生』の本質はあまり知られていなくて

 

実は死なせるという結果の禁止ではなく、殺意の禁止であり、害意の禁止なのです。

そこに殺めてやろう、苦しめてやろうがない事が大事。

 

そしてもう一つ『感謝』です。

 

あれはダメ。これは良い。ではなく食べられる感謝。楽しめる感謝を持つことが大事なのかと。

 

 

 

昔、太平の世となった江戸で釣りの大ブームが起こりました。

それは、食の為だった釣りから娯楽のための釣りに変わった時代でした。

この頃は近所の川や海いたるところで、町民、侍、遊女までもこぞって釣りをしていたそうです。

 

果たしてその中にお坊さんはいなかったのでしょうか?

釣り用語の中には『外道』や『ボウズ』と言った仏教が語源になる言葉があります。

釣りを対外的に見ていたとしたらこのような『用語』が生まれたでしょうか?

 

仏教の考え方の中で“する”ことよりも“しない”ことの方が徳のグレードはより高い。

という考え方があります。

要はいい事をするより『自分を律して欲を絶つ』ことの方が徳が高いとされているのです。

 

もし江戸時代にお坊さんも釣りをしていて、『これは楽しいな!何にも変えがたい!』と思っていたとして、その『変え難いものを絶つことで徳を得る』という行いが後世に伝わったときに歪曲し、仏教における釣り禁止のイメージの普及につながってたとしたら面白くないですか?

 

僕は仏教徒でもキリシタンでもないですが『生き物の命は平等』であれば理想的なんですが、

僕は多分そうは思えません。

 

もし道に『魚』と『人』が倒れてたら僕は人を助けますもん。

 

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