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🐟 魚族供養の歴史と成り立ち 🪦

 

こんにちは!最近は寒くなってきてコハダや寒ブリなど美味しい季節になってきましたね!

 

 

お正月などは集まりも多くお刺身なども口にする機会も多くなりますが、それを頂くということは海の幸であるお魚をはじめとする海の生き物達に対しての『殺生』が伴ってきます。

それは否定することではなく『生きる為に命を頂戴している事だと思います。

 

 

我々も釣具メーカーを営んでおりますので、そこに対しての『関心』があり、

心ばかりか毎年『魚族供養をさせていただいております。

 

 

そこで今回は、なぜ魚族供養が必要なのか?やその歴史、どんな所でどんな供養が行われているのかを記事にしていこうと思います!

 

 

『釣りと仏教』のコラムはこちら!

 

【目次】

 


 

1・魚族供養がなぜ必要なのか?

 

 

【供養の心とは】

 

日本は周りを海で囲まれた地形の為、古来より『海』『川』と密接な関係を築いてきました。その為日本人にとって漁労採取の営みは、生きる上で必要なことでもあります。

 

魚の命を奪うことに対し、人々は感謝の意を表してきました。

それが仏教の思想と結びついたときに供養塔や供養碑となってあらわれるのです。

 

つまり供養塔が建てられる意味とは命で命を繋ぐことへの感謝を表したものなのです。

 


 

2・魚族供養の歴史

 

【人々と魚族供養の歴史】

 

魚族供養の歴史を調べてみると、その痕跡となる供養碑は国内各地に1100基以上も存在することが明らかになった。

 

供養碑のなかで建立時期のわかる供養碑は688基あり、それらを検討すると、供養碑は江戸時代に入って増えることと、そして、平成の時代に至るまで各地で供養碑が建てられ続けてきたことがわかる。

 

実際、明治以降に建てられた供養碑の数は523基もあり、供養碑の建立は、むしろ近代になってより盛んになったということがわかる。

 

 

 

江戸時代

 

江戸時代の供養碑はクジラを対象としたものが圧倒的に多い。

この時代に、困窮を救ってくれた寄り鯨への感謝や、捕鯨との関わりで各地に鯨の供養碑が建てられるようになる。

 

大漁に感謝しつつ慰霊のために建てられた魚類の供養碑が登場するのはクジラより遅く、1800年代になってからである。

 

明治時代

 

 

明治以降は、大漁による売り上げの増加や販売先拡大などの事業成功を理由に供養碑が建てられる例も出てくる。

 

昭和時代

 

昭和期に入ると、真珠、アユ、ニジマスや食用蛙など、養殖関係者が建立した供養碑も登場する。

 

昭和以降は、漁業養殖業といった生産分野のみならず、魚商卸売市場などの流通分野や、料理組合加工食品会社などの加工分野までと、水産業界の様々な事業者が供養碑を建てるようになり近代以降の供養碑の増加は、供養主体の多様化とともに進んできた。

 

 

【〜現在

 

戦後になると、「魚霊碑」「魚魂碑」のように、祀る対象を大きく捉えた供養碑も登場する。

 

戦後建立の先のような供養碑は121基もあり、漁獲対象や、水産試験場が扱う実験魚全体開発工事や災害の影響で失われた生命など、より多くの生き物をまとめて扱うために包括的な名称が選ばれるようになったものと思われる。

 

時代が下るにつれて、供養碑建立の『理由』や『気持ち』も多様化、細分化されてきている。

 

その為元々あった食による命を繋ぐ感謝』から『生活や人生を支えてくれている感謝

というもっと大きな枠組みへと変わりつつあるのかもしれない。

 


 

3・魚族供養を行なっている場所

 

 

 

】和歌山 梶取崎園地【くじら供養碑

 

 

 

〜鯨に感謝し、供養〜

 

我が国の捕鯨発祥の地として「鯨魂の永く鎮まりますようという願いを込めたくじら供養碑が、熊野灘を一望する梶取崎園地の一角に建立されています。
毎年4月29日にはここで捕鯨OBが主催する「くじら供養祭」が行われます。

 

 

全国で最も多い『鯨慰霊碑』の代表です。

ここに住む先人の多くは、鯨に挑むことを誇りとして生き甲斐と糧を求め、長い間生計を営んできました。

その中での歓喜と共にある深い後悔を忘れない為に慰霊碑を建て祀ったとされています。

 

 

 

】東京 築地 波除神社活魚塚

 

 

 

〜供養塔の多様化〜

 

ここ『波除神社』には『活魚塚』『鮟鱇塚』『海老塚』『昆布塚』など様々な供養碑が立っています。

 

これは築地はは旧築地市場が近かったことから、多くの魚を生業とする人々』と縁が深いため、その方々が生かしてもらっている感謝の証と築地という地域が漁業によって活かされているという思いの現れではないかと思います。

 

 

 

】静岡県 伊豆 大藪弁才天【いるか供養碑

 

 

 

〜伊豆とイルカの関係性〜

 

伊豆のイルカの追い込み漁は、明治時代から記録があり、昭和30年代まで盛んに行われていました。

沖から多くの小船で、竹竿で水面を叩きながら、深く入り込んだ湾内の漁港に追い込んだそうです。

 

一時期は、イルカ漁といえば伊豆と言われていましたが、現在は全く行われていません。

伊豆には『いるか供養塔』が7つもあります。

供養塔は、大量のイルカの捕獲に対してその霊を慰めるために建てられました。

 

 


 

4・魚族供養の行事

 

 

】山口県 下関 【ふく供養祭

 

 

〜全国1の『ふく』供養祭〜

 

ふくの供養祭」は毎年4月29日、フグの取扱量日本一を誇る下関市彦島西山町の南風泊市場で行われ、下関の風物詩となっています。 (下関でのふぐの呼び名「ふく」を数字の2.9とかけて制定されたそうです。)

 

約80年もの間、行われてきた伝統行事で来季の豊漁や航海の安全を祈ります。 下関では「ふくは秋の彼岸から春の彼岸まで」といわれ、9月から翌3月まで漁が続きます。

 

この供養祭には全国からふくの関係者が多数集まり、ふくの供養を行った後、船が関門海峡に向けて出航しふくを放流します

 

 

下関では地場産品であるフグを幸福にあやかってフクと呼んでいるそうです。

(ふぐは不遇を連想させるからという説もあり。)

 

 

 

】静岡県 浜名湖【鰻供養祭

 

 

〜浜名湖と魚籃観音〜

 

浜名湖では毎年8月24日に弁天島にある魚籃観音でうなぎ供養祭が行われます。

 

浜名湖のうなぎ関係者をはじめ各地のうなぎに携わる方が一同に会し、僧侶のお経のもと焼香して、その一年に消費されたうなぎに感謝し、そして業界の益々の発展を祈念して浜名湖へうなぎの放流が行われます。

 

この観音様の正式名称は「魚藍(ぎょらん)観音大菩薩像」と言います。

仏道の戒律を破り殺生しなければ生きていけない猟師たちの心を憂いた観音が、自ら魚籃をささげ魚を施し信仰をすすめた姿と言われているそうです。

 

観音様は、うなぎの稚魚であるシラスウナギが遡上してくる浜名湖口の方角を向いており、穏やかな顔で海から戻るシラスウナギを優しく見守っているようです。

 


 

5・まとめ

 

今回は魚族供養についての情報をまとめてみました。

 

感謝や豊漁。過去や現在、未来。様々な供養の形があるんですね。

 

これからも感謝と哀悼の気持ちを忘れずに『食』や『生』と向き合っていきたいですね。

 

また、次の機会に『仏教と供養の心』をテーマにした記事を書く予定なので、そちらの方も目を通していただけたら幸いです。

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